台湾本島で最も早い時期に建設された都市は現在の台南市(台湾南部)とされている。1624年、台湾南部に上陸したオランダ東インド会社が、大員(現在の台南市安平)にゼーランディア城(熱蘭遮城)を築いた。台湾の最高学術研究機関である中央研究院台湾史研究所は23日、「大員港市的空間與治理」と題する国際ワークショップを開催。オランダで発見された当時の地籍簿をもとに、研究の成果を明らかにした。
地籍簿を発見したのはオランダの非営利団体「国際文化遺産活動センター(The Centre for International Heritage Activities)」の研究員Menno Leenstraさん。1643年3月3日、オランダ東インド会社の商務員であったNicasius de Hoogheという人物は、大員にあるすべての土地や建築物の面積を測定し、所有者を登録する地籍調査を行うよう上司に命じられた。税金徴収の根拠とするのがその主な目的だった。1647年1月、地籍調査を終えたNicasius de Hoogheは妻子とともに台湾を離れ、故郷のアムステルダムへ向かったが途中で遭難。子どもは帰国後、親戚のロメイン・デ・ホーホ(Romeyn de Hooghe)と公証人のSebastiaan van der Pietが共同で親権を持つことになった。
Menno Leenstraさんは、公証人のSebastiaan van der Pietが保管していたデ・ホーホ家に関する資料の中から、Nicasius de Hoogheらが台湾で生活していたころの数々の関連文書を発見した。その中には、すでに失われたと考えられていた大員の地籍簿が含まれていた。
ゼーランディア市(熱蘭遮市)は、ゼーランディア城の城郭内に作られた街だ。いまから400年近く前、1624年から30年間にわたって存在した。市内には市役所、測量所、病院、市場、孤児院、女性の更生施設、共同墓地などの公共施設も存在していた。
地籍簿は、『De Dagregisters van het Kasteel Zeelandia(ゼーランディア城日記)』の史料翻訳に続く、オランダ統治時代の台湾史研究における一級史料の発見となった。『ゼーランディア城日記』においてすでに、当時台湾本島がフォルモサと呼ばれ、17世紀における主要な国際貿易の中心として、非常に重要な地位を占めていたことなどが分かっている。
発見された地籍簿では、当時、ゼーランディア市で最も活躍していた華人は、中国大陸・福建省から移住してきた人々ではなく、オランダ東インド会社が勢力を持ち始めたのと同時に、東南アジア各地でオランダ人と協力してきた海外在住の華人だったことが分かった。また、かなり多くの家屋が、少数の華人とオランダ人によって所有されていたことも判明した。例えば当時の住民は320世帯で、そのうち20世帯がオランダ人、その他は華人の名前で登録されていた。しかし、華人が住む家屋は、わずか70名余りの華人の所有者のものとなっていた。地籍簿は、そのうち31人の生活状況も明らかにした。オランダ人と関係が密接な、あるいは不動産を多く持つ者の過半数はオランダ通詞であった。多くの家屋を少数の華人とオランダ人が所有し、この場所に住んでいた商人などに賃貸ししていたのだろう。
また、住民の3分の1はポルトガル語やスペイン語が話せた。少数だが日本からやってきた華人もおり、日本語が話せた。先住民族の集落に住む人々はマレー語でコミュニケーションを取っており、共通言語は閩南語(いわゆる「台湾語」)であった。貿易のためによく訪れるのはベトナム南部とカンボジア。一部の住民はインドネシアのジャカルタから来ており、東南アジア各地の唐人町について非常に詳しかった。いずれも中国とは緊密な関係を持ち、福建省厦門(アモイ)との往来も頻繁に行っていた。
国立成功大学建築系(=建築学科)の助理教授である黄恩宇さんは、この地籍簿をもとに1640年代のゼーランディア市の地図を復元した。黄恩宇さんによると、地図の復元は格別な意義を持つもので、いくつかの主要道路によって構成されていたこの街の輪郭を浮き彫りにすることができた。トルコ出身の測量士のCaspar Schmalkaldenという人物が1648年に作成したという現存する当時の地図と比べてみてもほぼ一致していることから、この地図の正確さをうかがい知ることができる。復元した地図は、ひとつひとつの家屋の形状や大小、街の向きや寸法などが明確に再現されており、今後の遺産発掘などに有力な根拠を与えることになる見込み。なお、現在の台南市安平区の老街(古い街並み)の構造は17世紀のものと一致しているものの、街道のほとんどの道幅は当初のものよりやや狭くなっていることも分かった。